東京地方裁判所 昭和63年(む)864号 決定 1988年11月30日
主文
本件準抗告を棄却する。
理由
一 本件準抗告申立の趣旨及び理由は、準抗告申立書、準抗告理由補充書及び同補充書(二)記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。
所論は、要するに、(1)報道の自由は、取材によって得たものを、報道目的以外に使用しないという報道機関の自主的判断が尊重されて、はじめて成り立ちうるものであり、報道機関の意に反し、これが報道目的以外に使用されることは、国民の報道機関に対する信頼を著しく損なう結果となるので、いかなる理由があろうとも、憲法上とうてい許されない。(2)仮に、報道の自由が、他の重要な法益との権衡上、ある程度の制約を受けることがあるとしても、本件で「報道の自由」と対比されるのは、「捜査の必要性」であって、憲法上の要請とはいえない法益である。したがって、両者を比較衡量する場合、憲法上の要請である報道の自由の保障を、より尊重する判断をなすべきである。そして、本件差押にかかるビデオ・テープ四巻は、いずれもいわゆるマザー・テープ(撮影されたテープそれ自体で、未編集のもの)で、しかも、そのうち二巻は、差押時において未だ放映されていなかったものであるから、本件では明らかに報道の自由の確保が優先されるべき事案があったのである。本件差押処分は、憲法二一条に違反する違法な処分として、速やかに取り消されるべきである、というのである。
二 よって、検討するに、一件記録によれば、東京地方検察庁検察事務官永井栄次他一名は、昭和六三年一一月一日、松原弘に対する贈賄被疑事件に関し、東京簡易裁判所裁判官の発した差押許可状に基づき、申立人会社において、別紙目録記載のビデオ・テープ四巻を差し押さえたことが認められる。
三 ところで、報道機関の報道は、民主主義社会においては、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の「知る権利」に寄与するものであるから、報道の自由は、表現の自由を規定した憲法二一条の保障のもとにあることはいうまでもなく、また、このような報道機関の報道が正しい内容をもつためには、報道のための取材の自由も、憲法二一条の精神に照らし、十分尊重されなければならない(最高裁昭和四四年一一月二六日大法廷決定・刑集二三巻一一号一四九〇頁参照)。
しかしながら、右のような報道・取材の自由も、これと対比しうべき他の重要な国家的・社会的法益等との権衡上、ある程度の制約を受ける場合があり得ることは、これを否定することができない。いわゆる博多駅事件に対する右最高裁決定が、報道機関の取材の自由につき、「公正な裁判の実現というような憲法上の要請があるときは、ある程度の制約を受けること」があるのもやむを得ない旨判示するところは、その基本的な考え方において、本件にも妥当するものというべきである。
ただ、本件は、捜査機関が主体となって行った差押処分であって、裁判所が提出命令を発した右博多駅事件とは異なるが、適正・迅速な捜査は、刑事訴訟手続における実体的真実の発見、ひいては、公正な裁判の実現という憲法上の要請を満たすための不可欠な前提となるものであるから、たとえ、捜査機関が行う差押処分であっても、裁判所が発する提出命令の場合と本質的な差異はないというべきである。
四 そして、報道機関が取材活動によって得たものを、捜査機関が差押の必要があると認めて差し押さえる場合、前記のとおり、報道・取材の自由がある程度の制約を受けることがあるのはやむを得ないとしても、もとより捜査機関の恣意が許されるわけではない。報道・取材の自由が憲法上に占める重要な地位・役割に照らすと、捜査機関としては、差押の必要性を判断するにあたっては、一面において、犯罪の性質、態様、軽重及び差し押さえようとする証拠の価値、並びに起訴・不起訴の処分や起訴後の訴訟遂行をなすについての必要性の有無等を考慮するとともに、他面、これによって報道機関の報道・取材の自由に及ぼす影響の度合その他諸般の事情を、十分に比較衡量して決するべきである(前掲最高裁決定参照)。
ことに、捜査段階における差押の場合、その必要性の有無は、主として捜査機関の判断に委ねられているのであるから、捜査機関としては、その立場上、右の諸事情を比較衡量するにあたっては、より一層慎重な態度でこれを決するべきである。そして、差押の必要性が認められる場合であっても、それによって被る報道機関の不利益が、最小限度にとどまるよう特段の配慮をすることがのぞまれ、他に替わるべき証拠の収集その他相応の努力を尽くすことなく、軽々に報道機関に対する差押処分をなすようなことは、厳に慎まなければならない。
五1 これを本件についてみるに、一件記録によれば、本件差押処分は、松原弘に対する贈賄被疑事件捜査の一環としてなされたものである。同被疑事件は、衆議院議員楢崎弥之祐に対し、いわゆるリクルート疑惑に関する国政調査権の行使等に、手心を加えてもらいたいなどの趣旨で、三回にわたり多額の現金供与の申込をしたというものであって、右楢崎の告発(昭和六三年九月八日)以来、主権者たる国民が、その帰趨に大きな関心を寄せている重大な事犯である。
そして、同事件は、その罪質上、密室性が強く、被疑事実の存否・態様の解明は、贈賄の申込をしたとされる松原と、その相手方たる楢崎の供述に負うところが大である。しかるに、松原は、同年一〇月二〇日逮捕されて以来現在に至るまで、一貫して現金提供の趣旨を含む重要な諸事実につき、種々弁解して賄賂の申込を否定しており、また、松原の勤務先関係者等も、取調べに対して必ずしも協力的でない事情が窺われる。他方、楢崎は、本件告発事実の大綱については、明確に供述しているものの、松原との接触時及びその前後の状況等について記憶するところは、必ずしも正確とはいいがたい。しかも、その際における松原の発言は、ことさら曖昧で抽象的な表現を用いている。事件の全貌とりわけ右同人の真意とするところを適確に判断するには、相互に交わした言葉の内容だけでなく、両名の所作やその場の雰囲気等を参酌することが必要である。
したがって、同年九月三日撮影のビデオ・テープ二巻(同日現金五〇〇万円の供与申込をしたとされる際の状況を撮影したもの)及び同年八月三〇日撮影のビデオ・テープ二巻(現金各一〇〇万円の供与申込をしたとされる同月四日ころと二五日ころの経緯等をめぐって、右両名間で交わされた会話の状況を撮影したもの)は、当時の状況を解明する証拠として、いずれも極めて重要な価値を有し、しかも、松原は、本件差押前の段階において、未放映部分に自己の供述を裏付ける有利な録画部分が存在しているはずである旨、捜査官に強調していたことが窺われるので、松原に関する罪責の有無・内容を判定するうえで、原本であるマザー・テープの取調べが、必要・不可欠であったものと認められる。
2 他方、本件ビデオ・テープが、所論の指摘するとおり、すべてマザー・テープであるとしても、本件差押処分がなされた時点までには、既に申立人側で放映に必要な編集等を了し、右八月三〇日撮影分については、本年九月五日以降再三放映し、右九月三日撮影分についても、本件差押当日の一一月一日に放映しているのである。したがって、本件差押によって、申立人側が被ると思料される主たる不利益は、取材したものを編集し、放映するという、本来の意味における「報道の自由」そのものに対する障害というよりも、報道目的で取材したものを、捜査目的に使用されることによって生ずる可能性のある、「将来の取材の自由」に対する障害のおそれの有無・程度ということになろう。
そこで、これを本件に則して検討すると、本件では、報道機関に対する情報提供者は告発人の楢崎自身であり、しかも、同人は、捜査機関に対する後の告発に備え、あるいは、提供された現金の行方について、あらぬ疑いを避け、身の潔白を証明するため、その証拠を保全するなどの意図の下に、知人である申立人会社の記者にその撮影を依頼した事情が窺われる。
右のような撮影に至る経緯に照らせば、たとえ、その撮影が申立人会社の人員及び機材によって行われたとしても、本件ビデオ・テープの差押による、報道機関と取材源との間における信頼関係破壊のおそれは、何ら問題にする余地がない。また、今後の取材活動に関しては、本件と同種形態の事例についてはもとより、それ以外の形態の場合についても、本件差押処分によってもたらされるであろう、将来における取材の自由に対する障害の程度は、さして大きいものとは考えられない。
3 そして、本件差押処分に至るまでの間における、捜査機関の採証状況及び報道機関との折衝状況その他一件記録上窺われる諸般の事情をも総合すると、本件差押処分によって、申立人が被る右の程度の不利益は、報道・取材の自由の重要性を十分に尊重・考慮しても、なお受忍されるべき範囲内にあるものと認められる。
六 以上のとおり、本件差押処分に違憲・違法のかどはなく、所論はいずれも理由がないので、刑事訴訟法四三二条、四二六条一項により、本件準抗告を棄却することとする。
よって、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官宮嶋英世 裁判官柏村隆幸 裁判官舘内比佐志)
別紙目録
一 ビデオ・テープ 四巻
昭和六三年八月三〇日(二巻)及び同年九月三日(二巻)、東京都港区赤坂二丁目一七番一〇号衆議院赤坂議員宿舎において、松原弘が衆議院議員楢崎弥之祐に接触した状況を各撮影したもの。
別紙準抗告申立書
被疑者 松原弘
申立の趣旨
東京地方検察庁検察事務官永井栄次らが、昭和六三年一一月一日東京都千代田区二番町一四番地申立人日本テレビ放送網株式会社で別紙目録記載の物件についてなした押収処分を取消す。
との裁判を求める。
申立の理由
一 申立人の報道機関としての使命と表現の自由
1 申立人は、昭和二七年七月三一日わが国において最初に民間テレビ局としての免許を受け、全国に二九社の系列局により放送網を形成している報道機関であり、本件押収にかかるビデオテープ四巻は、いずれも、申立人が報道機関としての立場から、もっぱら報道目的のためにのみ撮影した未編集のビデオテープであり、うち二巻(九月三日分)は本件差押時においては未放映であった。
2 ところで、憲法二一条が保障する「言論、出版その他一切の表現の自由」の中に、事実をそのまま伝え知らせる「報道」の自由も含まれることは、今日判例・学説ともに異論をみないところであるが、わけても報道機関による報道は、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の「知る権利」に奉仕するという点において、民主主義社会の基盤をなすものであることから、その自由は最大限に保障されなければならない。
そして、右の報道の自由とは、報道目的の取材の自由及び取材の結果として得られた事実・情報(本件においては撮影されたビデオテープを含む)を報道するか否か、報道するとしてこれをどのように編集し、いつ報道するかについて国家機関はもとより、当該報道機関の自主的決定以外に他の何人の干渉も受けないことを意味する。
かような報道の自由は、取材によって得られた事実・情報(本件においてはビデオテープを含む)を報道目的以外に使用しないという報道機関としての自主的判断が侵害されないことが最少限保障されてはじめて成り立ちうることがらである。
けだし、取材の結果得られた事実・情報(本件においてはビデオテープを含む)が報道機関の意に反し、報道目的以外の目的に使用されることになれば、すでにその点において報道の自由が侵害されたことになるばかりか、より根本的に、右の事態を報道機関が甘受しなければならないとすれば、国民の報道機関に対する信頼は著しく損なわれ、国民の「知る権利」に奉仕する報道機関の依って立つ基盤は崩壊する虞れなしとしないからである。
右の見地から、申立人は、前記開局以来、取材結果は、報道目的以外に使用しないという立場を自主的に堅持し続けて今日にいたっており、そのことは、報道の内容が犯罪に関するものであっても同様である。
報道機関が、犯罪の嫌疑ある事実を取材し、これを報道する目的は、その事実を広く国民に知らせ伝えることが公益に合致し、国民の「知る権利」に資することになるからに外ならないからであって、放送法三条の二第一項により正しい事実を、一方に偏らずに報道することを義務付けられている報道機関にとって、犯罪に関する事実の報道目的は右の述べたところに尽きるというべく、これをこえて検察当局に捜査資料を与える趣旨のものでもなければ、被疑者に訴追を免れしめるための資料を与えるためのものでもない。
一方起訴独占主義をとるわが刑事訴訟法の下においては、検察官のみが起訴権限を有し、その故に訴追当局に広範かつ独自の捜査権限が与えられているのであるから、訴追当局の捜査の目的はもっぱら起訴・不起訴を決定し、犯罪を証明するところにあり、従って、犯罪の嫌疑ある事実を追求するについても、報道機関のそれと捜査当局のそれとは趣旨、目的を全く異にし、且両者は別個独立して行うべきものであって、たとえ捜査当局にとってどれ程重大な証拠であっても、報道の自由の保障の下に報道機関がもっぱら報道目的のためにえた材料を捜査当局が強制的に差押え、押収し、これを捜査目的に供するなどということは憲法上到底許されないというべきである。
3 しかるに、前記ビデオテープ四巻に関する本件差押許可状の執行は、捜査の必要性という、起訴・不起訴の判断も含めた極めて広汎かつ、訴追当局の一方的利益のみを優先させて行われたものであって、右は、申立人の報道目的以外には使用しないという報道の自由を完全に侵害する違法な処分というべきものである。
二 報道の自由と公正な裁判の実現
1 報道機関が取材したニュース素材と刑事裁判との関係については、いわゆる博多駅事件に関する取材フィルム提出命令に対する特別抗告事件についての最高裁判所昭和四四年一一月二六日大法廷決定が存する。
右最高裁決定は、「報道機関の報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提出し、国民の『知る権利』に奉仕するものである。したがって、思想の表現の自由とならんで、事実の報道の自由は、表現の自由を規定した憲法二一条の保障のもとにあることはいうまでもない。また、このような報道機関の報道が正しい内容をもつためには、報道の自由とともに、報道のための取材の自由も、憲法二一条の精神に照らし、十分尊重に値するものといわなければならない。」「報道機関がその取材活動によって得たフィルムは、報道機関が報道の目的に役立たせるためのものであって、このような目的をもって取材されたフィルムが、他の目的、すなわち、本件におけるような刑事裁判の証拠のために使用されるような場合には、報道機関の将来における取材活動の自由を妨げることになるおそれがないわけではない。」と述べ、報道の自由、報道のための取材の自由が憲法上保障されていることを明言したが、他方、「取材の自由といっても、もとより何らの制約を受けないものではなく、たとえば公正な裁判の実現というような憲法上の要請があるときは、ある程度の制約を受けることのあることは否定することができない。」と述べ、報道の自由も右の要請があるときは、或る程度の制約を受けることを認めている。
申立人は、右最高裁決定の論旨にはにわかに左袒できないが仮に右の判断を前提としても本件処分は、違法である。
2 最高裁決定は、取材の自由の制約に関する具体的な判断基準として「審判の対象とされている犯罪の性質、態様、軽重および取材したものの証拠としての価値、ひいては公正な刑事裁判を実現するにあたっての必要性の有無を考慮するとともに、他面において取材したものを証拠として提出させられることによって報道機関の取材の自由が妨げられる程度およびこれが報道の自由に及ぼす影響の度合その他諸般の事情を比較衡量して決せられるべき」であると述べているが、右事案は、付審判請求の審理に関しての裁判所の提出命令にかかわる判断であり、そこにおいて比較衡量されたのは、「報道の自由」と「公正な刑事裁判の実現」というともに憲法上の要請にもとずく利益であるのに対し、本件は、捜査段階における捜査機関による押収処分の事例であり、本件において比較衡量されるのは、「報道の自由」と「犯罪捜査の必要性」とである。
右最高裁決定の趣旨を前提としても、本件における比較衡量の場合には、右最高裁判決の事例におけるよりは、より「報道の自由」の保障に重きを置いた判断がなされてしかるべきである。けだし、「公正な刑事裁判の実現」と異なり「捜査の必要性」は憲法上の要請ではないこと明らかだからである。
3 すなわち、前記博多駅事件に関し、最高裁判所は、右の如き比較衡量論を前提としたうえ、同事案に関しては、公正な刑事裁判の実現にとって必要な事情として、①同事件の審理が最高裁の決定時点(昭和四四年一一月二六日)において被疑者および被害者の特定すら困難な状態であって第三者の新たな証言も期待することができないこと、②そのため本件フィルムが被疑者らの罪責の有無を判定するうえにほとんど必須のものと認められる程に重要な価値を有していること、を挙げ、一方フィルムを証拠として提出させられることによって報道機関の取材の自由が妨げられる程度およびこれが報道の自由に及ぼす影響の度合については、file_3.jpg本件フィルムはすでに放映されたものを含む放映のために準備されたものであり、file_4.jpgそれが証拠として使用されることによって報道機関が蒙る不利益は、報道の自由そのものではなく、将来の取材の自由が妨げられるおそれがあるというにとどまること、を挙げ、結局file_5.jpg、file_6.jpgの不利益は、①、②の必要性の前に一歩譲るとしているのである。
これを本件についてみると、本件贈賄被疑事件においては、金品の提供申込を受けた楢崎弥之祐が右の事件の告発人となって積極的に捜査機関に協力しており、本件ビデオテープに撮影されている状況を捜査機関に既に供述し、また将来、公判廷において証言することが予定されていること、報道によれば被疑者松原弘自身も現金提供申込みの事実は認めており、その趣旨について争っているにすぎないこと、を各考慮すると、本件未放映のビデオテープ二巻を含む未編集の同テープ四巻が被疑者の罪責の有無を判定するうえでほとんど必須のものとは到底認め難いばかりか、捜査段階においてこれを押収しておかなければ本件ビデオテープが隠滅毀損される虞れがあるかどうかという点についても、松原弘の被疑事件が広く社会的関心を集めている事件であること、申立人においてすでに一部放映していたことを考慮すれば、申立人において隠滅毀損する虞れは報道機関の中立的性格に照らし絶無といってよい状況にある。そして、押収対象物たる本件ビデオテープはいずれも、未放映部分を含む未編集ビデオテープであって前記博多駅事件におけるように放映のために準備されたものではない。
4 以上に述べた「犯罪捜査の必要性」と「報道の自由」とを具体的に比較衡量すれば、たとえ本件押収によって申立人のその後の放映自体には重大な支障がなかったとしても、憲法上保障された報道の自由という報道機関の基本的権利を制約してまで起訴前の段階において押収する必要性は極めて乏しかったといわざるをえず、従って本件押収処分は憲法二一条に違反する違法な処分であったことは明白である。
本件処分は、直ちに取り消されるべきである。
三 今後の報道の自由に対する制約
1 前記いわゆる博多駅事件関連特別抗告事件において、特別抗告申立人各社は、「国家権力によるフィルムその他の提出命令が適法とされ報道機関がこれに応ずる義務ありとされその結果これらが報道以外の目的、特に刑事事件の証拠に使われることになれば(捜査機関による捜索、差押許可状の発布請求の乱用の危険も予測できる)」とその危険性を指摘していたが、まさしく本件は、この危惧が現実化した事例である。
2 申立人は、本件の如き押収が正当と認められれば、報道機関によって取材の経過を記した記者の取材メモすら捜査の必要性の前に押収の対象となりかねないものであって、かくては報道機関の存立そのものを危うくすると思料するものである。
本件押収処分の取り消しを強く求めるものである。
なお、追って理由書を追加提出する予定である。
別紙目録
一、ビデオテープ 二巻
昭和六三年八月三〇日、東京都港区赤坂二丁目一七番一〇号衆議院赤坂議員宿舎において、松原弘が衆議院議員楢崎弥之祐に接触した状況を撮影したもの。
二、ビデオテープ 二巻
昭和六三年九月三日、東京都港区赤坂二丁目一七番一〇号衆議院赤坂議員宿舎において、松原弘が衆議院議員楢崎弥之祐に接触した状況を撮影したもの。
別紙準抗告理由補充書
一 取材にいたる経過と報道の自由
1 本件ビデオテープの撮影の契機に関し、一部の報道等によれば、楢崎弥之祐が、再三に及ぶ被疑者松原弘からの現金提供申込により、自らに収賄の嫌疑が及ぶことを恐れ、収賄の事実がなかったことを証明するための証拠として撮影を依頼し、取材記者はこの依頼に応じて撮影したものであるとし、この点から、東京地方検察庁は、本件ビデオテープが報道機関による通常の取材の結果得られたものではなく、主として楢崎弥之祐に関する右嫌疑不存在の証拠として撮影されたものであるから、そのビデオテープの取り扱いも通常の「報道の自由」の問題とはやや異質なものである旨主張するかの如くである。
しかしながら、右見解は、報道目的のために通常行われている取材方法に対する無理解に立脚した謬見という外はない。
2 およそ報道機関による取材は、取材記者が誰の協力も得ることなく眼前に起きている事実を取材し、撮影することもあれば、取材を申し入れ、相手方の了解、協力の下に取材・撮影することもあるし、取材対象に察知されない方法で取材・撮影することもある。本件は一方の了解の下に他方には察知されない方法で行われた。
そのいずれの方法も、法律上許されない手段により行われた場合は格別、そうでなければ、いずれの方法も、憲法二一条の趣旨に照らし取材の自由として充分尊重されなければならないことは、本件申立書に援用した博多駅事件に関する最高裁大法廷決定の説示するところである。そして、前述のいずれの方法により取材されたものであったとしても、これが報道目的のために取材されている場合には、その取材の方法、端緒がどのようなものであれ、「報道の自由」にいささかなりとも影響を及ぼすものでないことは論を俟たない。
3 本件において、楢崎弥之祐が内心どのような意図を持ち、どのような言い方で申立人の取材記者に話をしたとしても、取材記者が個人的に自らのビデオテープを持ち込み撮影したのであれば別であるが、当該記者は、この間一貫してリクルート疑惑を取材中であったことから、楢崎弥之祐の言葉がどうであれこれを取材に対する協力とみ、これを端緒として被疑者松原の言動を取材すべく上司の決裁を得てカメラマン、音声担当等の申立人会社の正規の取材スタッフにより楢崎弥之祐の了解を得て機材を議員宿舎に搬入しビデオ撮影を遂行したのである。そして、撮影されたビデオテープは申立人において保管され、申立人の自主的判断において放映されたのであって、これら一連の経過をみるなら、取材協力を申し入れた楢崎弥之祐の意図が、たとえ前記1に述べたとおりであったとしても、それは本件取材・撮影の端緒となったにとどまり、取材記者は、右意図に何ら左右されることなくもっぱら報道目的のために取材・撮影したことは明らかである。従って、撮影された本件ビデオテープが、報道機関による報道目的のためのニュース素材としての性格を喪うことには全くならないのである。
二 捜査の必要性と報道の自由
1 前記博多駅事件に関する最高裁大法廷決定は、報道の自由が憲法二一条の保障の下にあることを認めたうえ、憲法上等しく要請されている「公正な刑事裁判の実現」との抵触の場面において、付審判請求事件とはいえ、報道目的のために取材されたフィルムに関しては、公正な司法機関である裁判所の提出命令に対してすら一定の要件の下においてはじめて正当としてこれを是認し、報道の自由も一部制約されても已むをえないと判示しているのであるが、本件においては、憲法上保障された報道の自由は、起訴するかしないかという判断も含めた捜査機関独自の「捜査の必要性」という憲法上の要請とはいい難い事由によって制約されたのである。
しかも、本件において看過しえないことは、本件押収処分の対象となったビデオテープ四巻は、八月三〇日及び九月三日に議員宿舎で撮影されたテープそれ自体で未編集のもの(以下「マザーテープ」という)であり、しかも一部(九月三日分)は差押時において未放映であったという点である。
放送局の場合、放映に当たっては、通常撮影してきたマザーテープをもとに、放映に必要な時間及び番組内容等に即して必要とされる映像部分のみをダビングしてこれに字幕(スーパーインポーズ)を入れるなどして放映用のビデオテープを作成する。
右のマザーテープから放映用のテープを作成する作業を放送局においては一般にテープの編集と呼んでいるが、右作業過程から明らかなとおり、マザーテープは、将来の放映用テープ制作のための基本となるものであり、その意味において放送局にとっては、「報道の自由」それ自体の内容をなすものである。
前記最高裁判決は、取材の自由がある程度制約されても已むをえない理由の一つとして、当該博多駅事件において押収されたフィルムが、放送局の撮影したネガティブフィルム(本件においてはビデオであるから、マザーテープがこれに該当する)ではなく、これから焼き直され、放映のために準備されたもの(本件においては編集されたテープがこれに該当する)であることを挙げているが、その趣旨は、結局右のネガティブフィルムを差押えられれば、報道の自由そのものに影響を及ぼすことを考慮したものであることは贅言を要しない。
しかるに、すでに述べたとおり、本件においては、放映のために準備された編集済のテープではなく、マザーテープそれ自体が差押えられたのであって、差押後に九月三日分の一部の放映が可能であったのは、申立人が独自にマザーテープをダビングし、放映用のテープを有していたからにすぎず、マザーテープが押収された今日、将来の放映に重大な支障が生ずる虞れが生じたことは否定できない。
マザーテープそれ自体の差押は、右の点において申立人の報道の自由それ自体を侵害する危険性を内包するものであった。
2 ところで、前記最高裁判決は、放映のために準備されたフィルムの差押によって報道機関の蒙る不利益は、報道の自由そのものではなく、将来の取材の自由が妨げられるおそれがあるにとどまる旨判示する。
たしかに、報道の自由が、思想を表明すること自体を妨げられることはないという意味での表現の自由と全く同一のカテゴリーで把握されるべきであるとすれば、現に放映がなされた以上、報道それ自体が妨げられたということにはならないかもしれない。
しかし、事実を正しく国民に伝え知らせることを永続的使命とする報道機関にとって、報道の自由は、正に将来の取材の自由が妨げられない保障によってのみ実質的な憲法上の保障が機能するのであって、既に取材した結果を報道する自由のみを本来の憲法上の保障とし、将来の取材の自由に対する支障を軽くみることが許されるならば、こと報道機関に関する限り、報道の自由に関する憲法上の保障は画餅に帰するといっても過言ではない。
けだし、将来の取材の自由に支障が生ずることになれば、報道機関は将来正しい事実を知り得ず、その結果正しい報道もなしえないこととなり、かくては国民の「知る権利」に資することも不可能となるからである。申立書において、右決定にはにわかに左袒しえないと述べた所以である。
3 本件についてみると、本件差押にかかるビデオテープは、楢崎弥之祐の了解により撮影したものであり、その押収は同氏の利益を損うものではないかもしれないが、しかし、報道の自由は、一個人の利害に左右されるものではない。
重要なことは、一個人の思惑がどうであれ、報道目的で撮影されたビデオテープが本件の如く捜査当局に利用されることによって、取材結果が報道機関の意に反し捜査当局に利用されうる可能性があることを国民が広く知るところとなり、この点に国民が危惧を抱くことにより将来公正な取材が望めなくなる虞れが生ずるという点である。このような事態になれば、報道の自由を論ずる前に、報道の内容を成す正しい事実の把握自体著しく困難となり、ひいては国民の「知る権利」に奉仕する「報道の自由」は形骸化すること必至とみなければならない。
将来の取材への支障は報道機関にとって死命を制する重大事ではあるが、「将来」の問題であるが故に常に一般的且抽象的危険としてしか論じえないのに対し、捜査の必要性は常に現在且具体的であり、両者を単純に比較すれば、後者に目を奪われる結果となりがちである。しかしそれは不合理である。この点を考慮し、且報道の自由は憲法上の保障であるのに対し、捜査の必要性はそうではないことに思いいたせば、仮に百歩譲って取材結果が報道目的以外に利用される場合があり得ることを肯定したとしても、その場合においてさえ「原則として報道機関の取材した物の提出命令・押収はできないという立場を堅持し、この原則を打ち破るような特殊的な、やむをえない利益(compelling interests)が立証されてはじめて、これを報道目的以外に利用するのを受忍するのが正当」というべきである。そして、「この点を厳格に解さなければ、証言強制・取材物提出命令などを通じて、報道機関が捜査機関の下請けとなる惧れは、通常考えられる以上に深刻になろう。」(引用いずれも奥平康弘「表現の自由Ⅱ」一七一頁。―有斐閣―)との指摘は誠に正鵠を得た見解といえる。
本件においては、右原則を打ち破る程の「特殊的な、やむを得ない利益」はなかったといわざるをえないのである。
別紙準抗告理由補充書(二)
検察官の昭和六三年一一月一六日付意見書に対し、次のとおり反論する。
一 「本件ビデオテープがもっぱら報道目的のために撮影されたものとは認められない」との意見について。
1 検察官は、本件ビデオテープは申立人が本来の取材活動により、独自に撮影したものではなく、「楢崎議員が松原の贈賄工作から身を守る自衛手段として将来の告発に備えて証拠保全のため、友人であった菱山記者に依頼して撮影したものと認めるのが相当であ(る)」旨主張する。
しかし、右見解はその根拠となる事実に誤りがあり、正当とはいい難い。
(一) すなわち、検察官は、本件ビデオテープの撮影に関し、「菱山記者が日本テレビのスタッフでそのような隠し撮りはできるし、協力するということだったので、右撮影を同人に依頼した」(二頁)とか、「そこで楢崎議員は、(略)菱山記者の応援で同宿舎にビデオカメラを設置し、午後六時ころ、同宿舎を訪れた松原と会っている状況をビデオ撮影した。」(三頁。以上は八月三〇日分)
「楢崎議員は、前同様、知人の菱山記者に依頼して、九月二日午後一〇時にビデオカメラを設置し、九月三日午前一一時、現金五〇〇万円を持参して赤坂議員宿舎を訪れた松原との接触状況をビデオ撮影し、松原が楢崎議員に現金五〇〇万円入り茶封筒を差し出し、同議員が金額を確認して突き出す場面やその後においても松原が執拗に受領を迫る場面等を生々しくビデオ撮影した。」(三頁。九月三日分)と述べ、恰も本件ビデオテープは菱山記者個人が撮影し、若しくは同人の応援で楢崎議員が撮影したかの如く主張する。
しかし、既に述べたとおり(補充書二丁裏)、本件ビデオテープの撮影は、菱山記者からの連絡に基づき、申立人が、その所有する超小型カメラ及び1/2インチVTRを用意し、議員宿舎にカメラマン、録音担当各一名、同宿舎入口付近にカメラマン、記者(菱山以外)各一名を配して(八月三〇日、九月三日共同じ。但し、九月三日使用VTRは3/4インチ)、報道機関として正規の編成により行ったものであり、しかも、菱山記者は、右両日とも撮影現場には立ち会っていないのであるから、右主張は、すでにその依って立つ事実において明白な誤りがある。
しかも検察官は、右撮影の契機として「たまたま(傍点引用者)友人に日本テレビ勤務の菱山記者がいたことから」同記者に相談した旨述べているが、菱山記者は、本件以前に取材活動を通じて楢崎議員と知り合い、以後親交を持つにいたったものの、八月三〇日段階において同記者は申立人の政治担当記者として野党を担当し、リクルート疑惑を取材中であったことから本件に関し楢崎議員と接触を持つにいたったのであって、決してたんなる友人として相談を受けたのではない。
現に菱山記者は、楢崎議員から、松原のこれまでの言動等を聞き、議員宿舎入口付近でのビデオ撮影および同宿舎内でのテープレコーダーによる録音について同議員の了解が得られたことから直ちに上司に取材許可を求めたところ、上司より小型カメラによるビデオ撮影の方がよいとの指示をうけ、改めて同議員の了解を得、これを受けて申立人は、前述のような正規の編成による取材体制を敷いたのであって、菱山記者個人が、楢崎議員の一友人として右のような取材体制を敷けるものでないことは論を俟たない。
(二) すでに補充書において再三述べたとおり、楢崎議員がどのような思惑、どのような言い方で宿舎内でのビデオ撮影を了解したとしても、それは取材の端緒にすぎず、申立人は、同撮影についてはすべて自己の負担で行い、自らの判断で放映日を決定し、自らの責任でこれを編集したうえ各放映しているのであって、この間楢崎議員にこれらのいずれについても許可を求めたことはなく、又撮影したビデオテープを楢崎議員に手交したこともない。
もし検察官の主張するところが事実であるなら、楢崎議員は、八月三〇日、九月三日のいずれについても撮影後直ちに当該ビデオテープを自己のものとして保管し、告発時に検察庁に提出していた筈である。けだし、検察官の主張によれば、右テープは正にそのために撮影した筈のものだからである。
しかし現実はそうではなく、しかも差押許可状別紙(一)によれば、検察官自身本件ビデオテープ四巻が申立人「日本テレビ放送網株式会社所有に係る」ものであることを認めたうえ、その押収処分の許可を簡易裁判所に求めたことが明らかである。
(三) 以上に述べたところによれば、検察官の前記意見は、事実誤認に基づくものであって失当という外はない。
本件ビデオテープは、正に「日本テレビが本来の取材活動により独自に撮影したもの」である。
なお楢崎議員の協力ないし了解を得て撮影したことは、申立人が「独自」に撮影した、ということを否定する要素たりえないことはいうまでもない。
2 次に検察官は、もっぱら報道目的のために撮影したのであれば、迅速かつ正確に放映すべきであったと考える旨主張する。
(一) しかし、本件の如きテープをいかなる時期にいかなるタイミングで放映するかについては、必要な裏付け取材、事件の推移等に照らし申立人が独自に判断し、その当否は国民の判断に委ねられるべきものであって検察官が容喙すべきことではない。
又「正確に放映すべきであった」との主張については、趣旨不明という外はないが、もしその意味するところが、編集しないまま、録画された全シーンを放映すべきであったという趣旨なら、およそ報道というものに対する無理解を示す以外の何物でもない。
けだし、報道機関は、限られた時間の中で、様々な事件を報道する必要がある以上、撮影したビデオテープの中から報道に値するシーンのみを取り出し、必要な時間に合わせて編集することは、本件に限らずどの事件報道においても行われていることであり、それは決して正確さを欠くことにはならないからである。
(二) 八月三〇日のテープが編集されて九月五日に放映され、九月三日のテープは告発後ほぼ二ヶ月を経た本件差押当日に編集されて放映されたという客観的事実こそ、本件テープが検察官主張の如き目的で撮影されたものでないことを物語るものである。
二 「本件差押えは、報道の自由との関係についても十分配慮の上行ったものであり、報道の自由を侵害したとは認められない。」との意見について
1 検察官は、「意見書」第二、一ないし三の理由から、本件ビデオテープを押収しても報道の自由には特段の支障も生じないと思料した旨主張するのでこれらにつき反論する。
(一) 理由一について。
この点についてはすでに反論したとおりである。もっとも、一の理由は、報道の自由について配慮したことの根拠となるものではなく、却って検察官が、本件ビデオテープを以て報道目的のため撮影したものではないと考えていたが故に、もっぱら捜査の必要性を優先させて差押処分に踏み切ったことを自認するものに外ならない。
(二) 理由二について。
本件において押収処分の対象となったのは、博多駅事件におけるように、放映用に準備され、一部すでに放映されたものではない。
そうではなくて、放映用に準備するための素となるマザーテープそのものであり、そのうち九月三日分は全く未放映であった。
申立人がこれらを素に放映用テープを制作し、本件押収時において八月三〇日分は一部すでに放映し、九月三日分は差押後に放映し得たからといって、右マザーテープ自体を押収したことによる押収後の報道の自由への侵害の危険性を否定することはできないのである。
(三) 理由三について。
すでに述べたとおり、博多駅事件に関する最高裁大法廷決定は、「報道の自由とともに報道のための取材の自由も憲法二一条の精神に照らし十分尊重に値いするといわなければならない」としたうえ、報道機関が報道に役立たせる目的をもって取材したフィルムが「他の目的、すなわち、本件におけるように刑事裁判の証拠のために使用されるような場合には、報道機関の将来における取材活動の自由を妨げることになるおそれがないわけではない」旨判示しているところからすれば、本件において、報道に役立たせる目的で申立人が撮影した本件ビデオテープ(マザーテープ)を、検察当局が犯罪の捜査という報道目的以外の目的に使用すること自体、報道機関としての申立人の将来における取材活動の自由を妨げることになるおそれが生じたことは明らかである。
楢崎議員が証拠保全の目的で取材を了解し、その故に本件ビデオテープを重要な証拠資料として告発してきていることから、同テープを押収しても取材の自由を侵害することにはならないと検察官が判断したとすれば、それは報道の自由及び取材の自由というものの公益性を正解しない考えと評すべきである。
何故なら、そのような考えは、免許を受け、公共の財産である電波を預かって国民の「知る権利」に奉仕することを目的とする報道機関による取材結果を、一個人の利益に供することを認める結果となるからである。
なお、取材源の秘匿は本件における取材の自由とは直接関係がない。
2 次に検察官は、慎重を期すため、宮本・大矢両弁護士に本件押収により報道の自由を侵害することにはならないことを確認した旨主張する。
(一) 堤検察官は、同弁護士らが任意提出拒否という申立人の内意を伝えた当初から「令状によって差し押さえるのが良いのではないか。正攻法で行きたい」と述べ、一〇月二五日の時点ですでに令状発付が確実であることを前提としていた。
令状による適法な差し押さえであれば、これをいかなる形にもせよ事実上妨害すべきではなく、又捜索による無用の混乱は避けるべきであるとの法律的観点から、同弁護士らは、令状による適法な差し押さえであれば仕方がない旨答えたのである。
この点は如何なる意味においても検察官が報道の自由に配慮を示したことになるものではない。
却って、令状による差押を既定の方針とし、その理由を「捜査に完璧を期したい」という点に置いていた検察官の態度こそ、前記大法廷決定の比較衡量論に照らしてさえ著しく問題であったといわねばならない。
(二) 次に同検察官は、オリジナルテープを差し押さえた場合、放映に支障が生じるか否か尋ねたところ、宮本弁護士から「ダビングしたテープがあるので放映に支障を来すようなことはない」旨の回答を得たので報道の自由を侵害することにならないことを確認し、そこで一一月一日差押許可状を請求した旨主張する。
しかし、右主張は事実において異なるばかりか、右の如き経過が、報道の自由を侵害することにならないことを確認したことにもならない。
すなわち、一〇月二八日の堤検察官の話の趣旨は、「早急に被疑者にテープを示す必要がでてきたので早急に令状をとりたい。放映日の関係はどうなるか」ということであった。
すなわち、ここにおいても令状による差し押さえを当然の前提とし、しかもその執行をほぼ一一月一日に絞ったうえ、その前に放映しておかなくてもよいのか、との趣旨であったから、そのような捜査の進展に左右されて放映日を決定せざるをえないこと自体、報道機関として耐え難いことであったので、同弁護士は、「放映日は関係ない。差押の前後にかかわらず放映できる」旨答えたのである。
右の経過からは、申立人がもし差押により放映に支障が生ずると述べた場合、検察官が押収を差し控えるとか、放映迄執行を猶予するとかの態度は全くみられない。
前記一〇月二五日以降検察官は一貫して差押令状による執行を既定の方針としていたのである。
三 「本件ビデオテープは、松原の楢崎議員に対する本件贈賄工作の真相を解明し、公正な裁判の実現を図る上で必要かつ不可欠な証拠資料である。」との意見について。
1 検察官は、本件告発事件は、悪質・重大な犯罪であり、その真相を把握し、適正な刑罰権の行使を図り、憲法上の要請でもある公正な裁判の実現を期すことは、検察権ひいては司法権に課せられた重要な責務である旨主張する。
(一) 右主張によれば、検察権は恰も司法権と並んで公正な裁判の実現の終局的な担手であるかの如くである。
これが単に検察官の自負にとどまるならともかく、本件押収処分の適否をかような観点から論じようとするなら、すでにその視点において誤っているといわねばならない。
すなわち、公正な刑事裁判の実現は、憲法三七条により被告人に保障された権利であり、その権利を制度的に実現するのは「公平な裁判所」であって、当事者主義の下で、たとえ公益を代表するとはいえ、訴追者の立場にある検察官に求められているわけではない。
(二) 検察官は、訴追者として、様々な捜査権限を持つが、同時にそれらの権限による各種処分は、被疑者の人権、まして被疑者でもない第三者の人権(報道の自由を含む表現の自由もその一つである)を不当に侵害することのないように裁判所の審査に服するのであって、本件において準抗告による審査の対象となっているのは、正にこのような観点から、検察事務官らが被疑者でもない報道機関たる申立人に対して執行した本件ビデオテープに対する押収処分が適法であったか否かにあることはいうまでもない。
(三) そこで検討するに、検察権の行使は何ら憲法上の保障が与えられていないばかりか、却ってデュープロセスによる制約を受けている反面、報道の自由は憲法二一条の保障の下にあり、取材の自由も憲法二一条の精神に照らし十分尊重されなければならないのであるから、「取材の自由」と「捜査の必要性」は、決して同一次元で比較衡量しうる法益とはいいえないこと明らかである。
前記大法廷決定が比較衡量論を展開したのは、当該事案が、たとえ付審判請求事件とはいえ裁判所が行う裁判手続であることに変わりがないことから、同手続の中で「取材の自由」と「公正な裁判の実現」という共に憲法上の法益が衝突し、その調和点を見出す必要性があったからに外ならない。
しかるに本件においては、前述の如く、一方の「取材の自由」は、憲法上の保障という高度の法益であるのに対し、他方の「捜査の必要性」はそうとはいいえないのであるから、大法廷決定の趣旨をそのまま本件に当てはめて同一次元で比較衡量することは相当とは言い難く、むしろ、本件においては、「将来の取材の自由」という憲法上の高度の法益を侵害する虞れが生じても已むを得ないと客観的に認められる程に明白且高度の捜査の必要性が証明されてはじめて、前記押収処分を適法と認めるべきである(別冊ジュリスト「マスコミ判例百選・鈴木茂嗣・報道の自由と公正な裁判」)。
そして、明白且高度の必要性の判断に当たっては、本件被疑事実の捜査に当たり、他に有力な証拠がなく、被疑者の罪責の有無を判定するうえで本件ビデオテープがほとんど必須のものといえるか否か、右テープを現時点で押収しておかなければ隠滅、毀損される虞れがあるかどうか等が慎重に検討されなければならない。
2 叙上の観点から、本件においては他に有力な証拠がなく、本件ビデオテープが、被疑者の罪責の有無を決定するうえでほとんど必須のものであったか否かについて検察官の主張に対し反論する。
(一) 検察官は、本件が贈賄申込みといういわゆる密室犯罪の一類型であり、楢崎議員が贈賄の申込みを受けた昭和六三年八月四日、二五日及び九月三日はもとより八月三〇日についても、楢崎議員及び松原という告発人、被告発人の両当事者のみが対応し、その際の具体的状況を供述しうる第三者がいないことを前提とし、意見書第三、一ないし三の理由から本件ビデオテープが必須のものである旨主張する。
しかし、右主張は正当とはいい難い。
(1) 本件はいわゆる密室犯罪ではない。
贈・収賄事件は、対向犯として、その双方につき嫌疑がかけられ、双方が共に贈・収賄の事実又はその趣旨を否定しているなら、いわゆる密室犯罪ということができる。
しかし本件の場合、楢崎議員は、当初から収賄の嫌疑がかけられることを避けるべく行動し、かつその結果として松原を告発するに及んでいるのであるから、その実質は通常の犯罪と変わるところがなく、しかも同議員の立場は、通常の犯罪における被害者の立場にはあたらないから、その供述は被害者のそれよりは遙かに客観的な内容を期待しうるものである。
このような点からみれば、本件は密室犯罪であるどころか、むしろ一般的にいって目撃者の存在しない加害者と被害者のみの通常の犯罪以上に立証が容易な事案というべきである。
(2) 八月四日、二五日の賄賂供与の申込については、本件の如きビデオテープが存在しないまま起訴されている。
本件公訴事実は、起訴状から明らかなとおり
① 八月 四日頃 金一〇〇万円
② 八月二五日頃 金一〇〇万円
③ 九月 三日頃 金五〇〇万円
の各供与申込であるところ、八月四日頃及び八月二五日頃のものについては、ビデオテープが存在しないこと明らかであるにもかかわらず起訴の対象となっている。
一方、意見書第三、一によれば、松原は右①ないし③のいずれについても現金持参の事実を認め、ただその趣旨を争っている、というのであるから、これらのうち、③の九月三日の行為についてのみその罪責の有無を判断するうえで本件ビデオテープ(九月三日分)が必須のものであったということは到底できないし、又本件ビデオテープ撮影以前である①②の行為の罪責の有無を判断するうえで本件ビデオテープ(九月三日分)が必須のものであったということもできない。
まして、八月三〇日の本件ビデオテープは、右起訴にかかる日の行為を撮影したものでは全くないのであるから、これも右①ないし③の行為の罪責の有無を判断するうえで必須のものであったということは到底できないのである。
(3) 次に、意見書第三、一ないし三の意見は単に捜査の完璧性ないし補充の必要性をいうにすぎない。
検察官が第三、一で述べているのは、結局「両当事者の供述のみをもってしては本件犯行事実についての事実の確定がなお不十分である」という点に尽きるが、右は、本件ビデオテープによりその不十分な部分を補充する必要性があるというにすぎず、明らかに前記最高裁大法廷決定にすら違背する。
同二については、「正確な意味等」を確定するといういわば捜査の完璧を期したいというにすぎず、これも前記決定に違背する。
同三については、公判段階での被告人の弁明を封ずるというにすぎず、これも右二同様である。
(二) 以上に検討したところによれば、
(1) 本件ビデオテープが被疑者の罪責の有無を判定するうえにほとんど必須のものであったとは到底いいえないこと明らかである。
(2) 翻って考えると、そもそも本件捜査の端緒となった告発は、前記公訴事実に記載された各犯罪の実行日より長くて一ヶ月余りの間になされ、この間楢崎議員は告発に備えて詳細なメモ等の資料を準備し、弁護士とも協議を尽くしている。
そして捜査の結果がどうであったかといえば、その詳細は知り得ないとしても、少なくとも公訴事実にかかる日時に、松原が楢崎議員宛現金を持参したこと及びその額はすでに認めているところであるから、本件の核心を成す現金供与申込の趣旨については、その前後の同議員のリクルート疑惑についての調査活動の内容、目的、対象及び右事件前においてリクルート社が同議員のパーティ券購入を断りながら同議員の追求が始まった直後に松原が現金を持参し「会社をお助け下さい」といったことなど他の各種証拠により、充分究明しうることであって、本件ビデオテープ(公訴事実とは関係のない八月三〇日分はもとより九月三日分についても)以外にこれを明らかにしうる証拠はないという状況では全くなく、現に八月四日、二五日はテープ自体がないまま起訴の対象となっていること前述のとおりである。
(3) そして、申立人において本件ビデオテープを隠滅、毀損する虞れがないこともすでに述べたとおりである。そうであるとすれば、本件押収処分には、申立人の将来の取材の自由を侵害する虞れが生じても已むをえないと客観的に認められる程に明白且高度の捜査の必要性はないといわざるをえないし、又仮に前記最高裁大法廷決定の比較衡量論に依っても、捜査の必要性の前に、申立人の将来の取材の自由が制約されても已むをえない場合であったということもできない。
四 結論
報道機関にとって、放映それ自体の自由が憲法上の保障として重視されなければならないことはいうまでもないが、その放映の自由を将来に亘って確保して行く上で将来の取材の自由もこれと比肩しうる程に重大事である。
そして将来の取材の自由は、取材結果は報道目的以外に利用せず又第三者特に捜査機関によっても濫りに利用されないという国民の信頼若しくは共通の認識の上にはじめて成り立ちうることである。
この点を充分に認識して本件押収処分の適否をみれば、その違法性は明らかであるといわねばならない。
本件のような事案においてなお報道目的のために取材したビデオテープの差押処分が許されるなら、今後捜査機関による取材の自由(将来の取材の自由を含む)への侵害ないし干渉に歯止めをかけるべき基準を見失うことになろう。
本件押収処分の取り消しを再度強く希望する。